3月6日、甲州勝沼柏尾戦
土方歳三(実像)が語る幕末『甲州勝沼・柏尾戦』 慶應四年 戊辰戦争概略歴
土方歳三(実像)が語る幕末『甲州勝沼・柏尾戦』 慶應四年 戊辰戦争概略歴
※甲州(山梨県)は地元です。柏尾戦当時、勝沼では自分の母親の曾祖母(「ひいばあさん」)が『萬屋』という店を開いており、塩の専売のほか、味噌・醤油・米などの販売もしていたそうで、普段は茶店同様、牡丹餅などの和菓子も提供していたため、柏尾山に布陣した新撰組の隊士が店にやってきて、兵糧米や味噌などをドッサリ買い込んでいった・・という経過を、伯父がまだ若い頃に記載していました。内容はちょっとヘタな小説風で(伯父は宗教関係者のペンクラブ会員)、実在した人物の死んだ時期が違うため、動画作りの参考にはなりませんが、新撰組の隊士だった人物を曾祖母が一晩泊めたことは事実のようです。 甲州に新撰組が来て戦があるそうだというので、勝沼界隈の民家では、皆が恐ろしがって戸を閉ざしてしまったそうですが、曾祖母の『萬屋』だけは開けたままだったので、新撰組敗走後、薩長の兵士らも店に来て酒を飲んで行ったそうで、随分(銭儲けをした)強心臓の曾祖母だったようです。 東軍の兵は敗走途中に店で一息し、『釣りはいらねえ』と言って巾着ごと置いて去っていったそうです。新撰組のいずれかの人物と、以前から知り合いだった可能性もありそうです。 それで、『大菩薩峠』の著者である中里介山が曾祖母のもとへ取材をしに来たんだと思います。新撰組とはただならぬ接点があったわけです。 土方に執着してしまうのも、そういった理由からなのかもしれません。 後に市川雷蔵主演で映画になった『大菩薩峠』でも、山間の茶店として『萬屋』の暖簾がヒラヒラしている場面がチラリと映っていました。 中里介山も、おそらく幾多の取材の結果、慶應四年から抜け出せくなったものと思われます。 それで小説モノにするしかなかったのかもしれません。 曾祖母の名は『とう』と言って、昔の呼び名では名前の前に 「お(を)」を付けた呼び名になるため、 「お(を)とう」というふうに呼ばれたようです。 『大菩薩峠』の小説にも、「女中」か「使用人」の扱いでチラっと名が出ているそうです。 曾祖母の嫁ぎ先の御先祖は、武田二十四将の一人(足軽大将)で、 三枝昌貞(諱:マササダ)※実名「守友(モリトモ)」とも。 内藤昌豊(昌秀)=修理亮(しゅりのすけ)
ウィキペディアでは「昌貞」と「昌豊(昌秀)」の死没年が同一。 「昌豊」が「昌秀」だったりして、もうなんだかムチャクチャ。 そこで、『錦絵』が重要な役割を果たすことになります。 内藤修理亮(昌豊)の名で描かれているものがあります。 永禄10年8月12日の時点では「工藤源左衛門尉昌秀」を名乗っている[3]。昌秀は永禄12年8月26日の時点で「内藤修理亮」を名乗っており、断絶していた武田家譜代の内藤家の名跡を継承し、内藤姓に改め、同時に修理亮を名乗ったと考えられている(工藤氏の家督は兄・昌祐が継いだ)。昌秀は永禄13年4月3日付武田信玄書状において「内藤修理亮」を称していることが確認され、同月10日には箕輪城代着任が確認される。 実際、手許にある三枝系図にも修理亮と名乗ったことが書いてありますから間違いないです。 動画の背景に錦絵を使っている理由は、素性に関連するもの・・と見ているからです。 これについてはまた後日、折に触れ動画で示すことになるでしょう。 文書での説明があまり上手にできず、申し訳ないです。 |
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3月6日、『甲州勝沼・柏尾戦』 慶應四年 戊辰戦争概略歴
甲州勝沼柏尾戦 慶應四年 戊辰戦争概略歴2018/06/02 に公開▼フルスクリーン再生※冒頭タイトルクリックでもOK「土方の真相」に関する説明を追々する上で必要不可欠な「布石」として鳥羽伏見戦から簡単にまとめた実像トーク動画の第2弾です。冒頭は回想部分として8倍速になっています。(※見ていると自然に動体視力がアップします。)土方音声:デジタルトークボイス土方画像:PC光源染色による復元2Dモデル※3D試作中(作成技工は、いずれもオリジナル)▼経過考察視点鳥羽伏見戦後、江戸へ帰った新撰組は、2月中旬に甲陽鎮撫隊を結成して同月末より甲州(山梨県)へ向けて行軍するも、途中で寄り道して進軍が遅れ、3月4日には板垣(乾)退助率いる官軍のほうが先に甲府へ入り、甲府城を押さえた上、援兵も増強していた。土方は「援軍要請」のために、また江戸へ戻った・・?定説本では『日野の佐藤彦五郎家へ寄ってから服を着替えて江戸城へ向かった』とされているが、敵が甲府へ入ったことを知り、急に援軍要請に向かうにしても、昨日強行軍で越えた雪の笹子峠(難所)をまた戻って?日野へ寄って?江戸城の慶喜へ援軍要請しに行く?・・というようなノロマな真似をしている余地などとてもないはずで、第一、佐藤彦五郎も春日隊として出兵することになっていたし、当時の江戸城西の丸の警備をしていたという菜葉隊には既に出動の手筈はついていたようなので《菜葉隊が動く間もなく甲陽鎮撫隊は敗戦》、事ここに及んで、土方が当時の陸軍総裁だった勝安房(海舟)を通さず、単独で慶喜に援軍を要請しに江戸城へ出向く・・などということは到底考え難いものだが、そういうふうに書いてある。その際、内藤隼人(土方)が早籠で通ったらしいが、この『内藤というのは土方の父親の姓である』と示しながら、何故、内藤が土方の父方の姓なのか・・については一切説明がない。また、甲州敗戦後に土方か近藤が勝と面談したらしい折、『勝が土方と近藤を勘違いしたのだろう』などとする学者の推測には、もう笑うしかない。『甲州攻めを提言した者が誰なのかわからない』ともあった。甲陽鎮撫隊結成前に土方や近藤が勝と会っていないわけがない。仮初とはいえ大名と目附役を当時の陸軍総裁が一見もしないまま取立てや行軍を許可するわけがないし、また、勝に面会する際には事前に名前や名札を示し、面談時は書生がいて内容を記録するため、『勘違いしたのだろう』などは、到底あり得ないことだ。実際、新撰組が鳥羽伏見戦から江戸へ帰還して間もなく、土方なり近藤なりが勝と面会する機会は十分あったと考えるほうが寧ろ自然であるのに、この期間、どちらも絶対に勝とは会っていなかったのだ、そうに違いない・・などと思い込ませたいためなのか、不自然な推測や憶測で誤魔化しているようにしか見えない。ならば、おそらく土方が(別名で)勝と会った経過があるので、それをまた後日、出すことにする。3月6日、東軍(新撰組の近藤ら)は官軍と勝沼・柏尾で交戦。急ごしらえの兵力ではまともな戦もできず、3時間程度で敗走。甲府占領を期した甲陽鎮撫隊の目論みは脆くも崩れた。柏尾戦で甲州鎮撫隊が散り散りに敗走したあと、土方が近藤と再会するまでには4日ほど間があるが、何故、それほど遅れたのか、「定説本」に説明はない。土方が菜葉隊援軍要請のため、先に江戸方面へ向かっていたとすれば、あとから敗走して江戸へ戻った近藤と再会するのに左程の日数を置くことはなかったはずだ。作家の司馬遼太郎でさえ、その空白経過については『自信がない』『とにかくまだ帰らない、まだ帰らない、帰らない・・』としか触れてない。ここで、土方ナニモノゾ・・という疑問がまたシンクロすることになる。行軍録の資料は小島鹿之助が写し書きをしたものだそうだから、真正の原本ではない。新撰組の行軍録は、慶應四年と慶應元年のものがある。その行軍録を見ると、土方の名は「目附」同等の場所に記載がある。慶應四年の甲州攻めの際、土方は寄合席(目附)を許可されている。慶應3年6月の段階で、既に幕臣の身分に取り立てがあったという流れで見ても、鳥羽伏見戦で敗退したあと「改めて」行軍編成を組む際、土方が「目附」同等の身分だったということに変わりはないはずだ。行軍録の『甲子皇州云々』との表題も、『甲州・八王(皇)子』の文字変換のようにも見受けられる。戦争について興味本位で触れるつもりはない。土方という人物そのものについて経過を辿る上で、敢えて戦歴を取り挙げてみる必要があったので、そうしたまでのこと。実際、「なんてマヌケな戦争馬鹿なのか」・・という見方もある。甲陽鎮撫隊の「軍艦」(御目附役)…というのがキーワードで、このときの行軍録が無いはずもなく、200名近くに及んだ隊士の行軍録を、『机上の空論』ないし『理想』として記載するほど土方が夢想家だったはずもない。実際、軍事行為に及ぶ際の記録は必ずつけておくものだ。
※甲州(山梨県)は地元です。柏尾戦当時、勝沼では自分の母親の曾祖母(「ひいばあさん」)が『萬屋』という店を開いており、塩の専売のほか、味噌・醤油・米などの販売もしていたそうで、普段は茶店同様、牡丹餅などの和菓子も提供していたため、柏尾山に布陣した新撰組の隊士が店にやってきて、兵糧米や味噌などをドッサリ買い込んでいった・・という経過を、伯父がまだ若い頃に記載していました。内容はちょっとヘタな小説風で(伯父は宗教関係者のペンクラブ会員)、実在した人物の死んだ時期が違うため、動画作りの参考にはなりませんが、新撰組の隊士だった人物を曾祖母が一晩泊めたことは事実のようです。
甲州に新撰組が来て戦があるそうだというので、勝沼界隈の民家では、皆が恐ろしがって戸を閉ざしてしまったそうですが、曾祖母の『萬屋』だけは開けたままだったので、新撰組敗走後、薩長の兵士らも店に来て酒を飲んで行ったそうで、随分(銭儲けをした)強心臓の曾祖母だったようです。
東軍の兵は敗走途中に店で一息し、『釣りはいらねえ』と言って巾着ごと置いて去っていったそうです。新撰組のいずれかの人物と、以前から知り合いだった可能性もありそうです。
それで、『大菩薩峠』の著者である中里介山が曾祖母のもとへ取材をしに来たんだと思います。新撰組とはただならぬ接点があったわけです。
土方に執着してしまうのも、そういった理由からなのかもしれません。
後に市川雷蔵主演で映画になった『大菩薩峠』でも、山間の茶店として『萬屋』の暖簾がヒラヒラしている場面がチラリと映っていました。
中里介山も、おそらく幾多の取材の結果、慶應四年から抜け出せくなったものと思われます。
それで小説モノにするしかなかったのかもしれません。
曾祖母の名は『とう』と言って、昔の呼び名では名前の前に
「お(を)」を付けた呼び名になるため、
「お(を)とう」というふうに呼ばれたようです。
『大菩薩峠』の小説にも、「女中」か「使用人」の扱いでチラっと名が出ているそうです。
曾祖母の嫁ぎ先の御先祖は、武田二十四将の一人(足軽大将)で、
三枝昌貞(諱:マササダ)※実名「守友(モリトモ)」とも。
内藤昌豊(昌秀)=修理亮(しゅりのすけ)
「甲陽軍鑑」で信玄は、「修理亮ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」と評して敢えて一通の感状も出さなかったという。一方の昌豊も、「合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことよ」と感状を貰っていないことなど気にもかけなかったという。これは信玄と昌豊の信頼関係の厚さを示すものである。
ウィキペディアでは「昌貞」と「昌豊(昌秀)」の死没年が同一。
「昌豊」が「昌秀」だったりして、もうなんだかムチャクチャ。
そこで、『錦絵』が重要な役割を果たすことになります。
内藤修理亮(昌豊)の名で描かれているものがあります。
永禄10年8月12日の時点では「工藤源左衛門尉昌秀」を名乗っている[3]。昌秀は永禄12年8月26日の時点で「内藤修理亮」を名乗っており、断絶していた武田家譜代の内藤家の名跡を継承し、内藤姓に改め、同時に修理亮を名乗ったと考えられている(工藤氏の家督は兄・昌祐が継いだ)。昌秀は永禄13年4月3日付武田信玄書状において「内藤修理亮」を称していることが確認され、同月10日には箕輪城代着任が確認される。
実際、手許にある三枝系図にも修理亮と名乗ったことが書いてありますから間違いないです。
動画の背景に錦絵を使っている理由は、素性に関連するもの・・と見ているからです。これについてはまた後日、折に触れ動画で示すことになるでしょう。
文書での説明があまり上手にできず、申し訳ないです。
土方歳三(実像)が語る幕末『鳥伏見戰』
2018/04/07 に公開追々する上で必要不可欠な「布石」として鳥羽伏見戦から簡単にまとめた次第です。土方音声:デジタルトークボイス土方画像:PC光源染色による復元2Dモデル(作成技工は、いずれもオリジナル)※デジタルトークの作成過程で若干の省略・追加編集ちなみに当時の幕臣は『徳川慶喜(よしのぶ)』を『けいき』と呼んでいたそうなので、そのまま読ませています。▲3Dモデル原型(画像は失敗作)・・試作停滞中。本来、3Dモデルでトークさせるつもりでしたが完成度が低く(髪型・服装・顔面の歪み等で難渋)、結局、2D画像のトーク動画になりました。※当初アップした前半が重複する動画は未完成のもので恐縮です。
次回は『甲州勝沼柏尾戰』に関連する動画を出す予定です。
甲陽鎮撫隊として甲府へ赴いた新撰組が、薩長軍の前に脆くも敗走した戰なので、左程の経過はないものの、それも押さえておくべき「布石」のひとつになります。
旧暦に合わせて進めるつもりでしたが、
このところ時事情勢が波乱含みで見逃せず、動画作成は遅延状態です。
関連の調べモノをしていれば、また新たな発見があったり・・で、
どうしてよいやら・・。
アンタ一体誰ね?ってなことになってます(あくまで自分の中では)。
封印は、必ず解き明かします。